恥の多い生涯を送って来ました。インクです。
買えないから魅力的
買えないから魅力的
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) July 11, 2019
先日ふとアイスクリームが食べたくなって、閉店間際のスーパーに駆け込みました。当たり前のようにアイスクリームを選び、レジに並んでいるときに、ふと「あれ、アイスクリームってこんなに簡単に食べられるものだったっけ」と思ったのです。
子どものころ、アイスクリームは「特別なおやつ」でした。クッキーともポテトチップスとも違う、甘くて冷たくてやわらかい、間違いなく特別なものでした。
しかし、その特別感はとうの昔に失ってしまっていたのです。いつ、どこで失ったのかは分かりません。今では、当たり前のようにアイスクリームをかごに入れ、YouTubeを見ながら何も考えずに食べています。
失ったことに気づいたところで、おそらくあの特別感はもう二度と戻ってきません。おやつだってゲームだってまんがだって、買ったときにはもっとわくわくしていたはずなのです。もしかしたら、経験を積み重ねるということは、そんなわくわく感を失っていくということなのかもしれません。
ここ最近の BUMPの曲の中だと間違いなく「記念撮影」が輝いている
ここ最近のBUMPの曲の中だと間違いなく「記念撮影」が輝いている
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) July 13, 2019
BUMP OF CHICKENとの出会いは中学生のころでした。仲のよかった友だちがBUMPのファンだったのです。
当時は「音楽を聴く」ということがどういうことなのかよく分かっていませんでした。判断基準は「聴いたことがあるかないか」だけです。だから、BUMPの存在を友だちに教えてもらったときに初めて抱いた感情は「天体観測は聴いたことがある」でした。おそらくこれまでの自分ならそこで止まっていたと思います。しかし、なぜかそのときはもう一歩自分で進んでみたのです。そこで出会ったのが、『ダンデライオン』という曲でした。『ダンデライオン』を聴いたときに初めて、音楽に対して「聴いたことがあるかないか」以外の感情が芽生えたのです。
そこからはとても早かったです。すでに発表されていた曲を手当たり次第に聴きました。そのときに「音楽を聴くってこういうことなのか」と思ったのを今でもはっきりと覚えています。
嬉しいことに、BUMP OF CHICKENというバンドは今でも活動を続けています。「最近の曲は全部同じに聴こえる」「昔の方がよかった」なんて声も多いですが、あのころの自分に『ダンデライオン』を届けてくれたことを思えば、もはや曲の良し悪しや昔との比較なんてどうだっていいのです。
ツアーが行われるたびにライブに足を運んだり、グッズが販売されるたびに購入して身につけたりだなんて熱量はありませんが、今でも自信をもってBUMP OF CHICKENのファンだと言いたいと思います。どうかこれからもたくさんの人に曲を届けてください。
太宰治の小説は笑える
太宰治の小説は笑える
— INK@小学校の先生 (@firesign_ink) July 13, 2019
太宰治と言えば、『人間失格』や自殺のイメージが強く、なんだか暗い印象をもっている人も多いのではないでしょうか。しかし、太宰治の作品を読めば読むほど、いかにユーモアに富んだ人物だったのかを知ることになります。 太宰治の小説は笑えます。
私は、犬については自信がある。いつの日か、かならず
喰 いつかれるであろうという自信である。私は、きっと噛 まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過してきたものだと不思議な気さえしているのである。
これは、『畜犬談』というお話の冒頭部分です。太宰作品を読んだことがない人は「え、こんな文章を書いてるの?」と驚いたのではないでしょうか。冒頭から間違いなく読者を笑わせにかかっています。
え、犬についての自信?懐かれやすいということかな?
...喰いつかれる自信かい!ていうか、喰いつかれる自信ってなんじゃい!
というようにツッコミを入れながら読んでしまいますよね。気になった方もいらっしゃるかと思いますので、続きをもう少し引用してみようと思います。
諸君、犬は猛獣である。馬を
斃 し、たまさかには獅子 と戦ってさえこれを征服するとかいうではないか。さもありなんと私はひとり淋しく首肯 しているのだ。あの犬の、鋭い牙 を見るがよい。ただものではない。いまは、あのように街路で無心のふうを装い、とるに足らぬもののごとくみずから卑下して、芥箱 を覗 きまわったりなどしてみせているが、もともと馬を斃すほどの猛獣である。いつなんどき、怒り狂い、その本性を暴露するか、わかったものではない。犬はかならず鎖に固くしばりつけておくべきである。少しの油断もあってはならぬ。世の多くの飼い主は、みずから恐ろしき猛獣を養い、これに日々わずかの残飯 を与えているという理由だけにて、まったくこの猛獣に心をゆるし、エスやエスやなど、気楽に呼んで、さながら家族の一員のごとく身辺に近づかしめ、三歳のわが愛子をして、その猛獣の耳をぐいと引っぱらせて大笑いしている図にいたっては、戦慄 、眼を蓋 わざるを得ないのである。不意に、わんといって喰いついたら、どうする気だろう。気をつけなければならぬ。飼い主でさえ、噛みつかれぬとは保証できがたい猛獣を、(飼い主だから、絶対に喰いつかれぬということは愚かな気のいい迷信にすぎない。あの恐ろしい牙のある以上、かならず噛む。けっして噛まないということは、科学的に証明できるはずはないのである)その猛獣を、放し飼いにして、往来をうろうろ徘徊 させておくとは、どんなものであろうか。
長い引用になってしまいましたが、この長さもおもしろさのひとつの要素です。長くなれれば長くなるほど「どれだけ犬を恐れてるんや!」という読者のツッコミも大きくなっていきます。
(飼い主だから、絶対に喰いつかれぬということは愚かな気のいい迷信にすぎない。あの恐ろしい牙のある以上、かならず噛む。けっして噛まないということは、科学的に証明できるはずはないのである)
ここの( )の使い方なんて最高です。「分かった分かった、犬がこわいのはもう分かったから!」 となりますよね。ちなみにこのあとには、友人が実際に犬に噛まれたというお話が続きます。
おもしろいのは、犬への恐怖心をつらつらと書き続ける語り口だけではありません。なんと、犬が怖くて仕方がないこの主人公が、物語中盤でひょんなことから犬を飼いはじめます。ここまで読んでくださった方ならもう続きが気になって仕方がないはずです。しかも、その犬の名前が「ポチ」ですよ。いやいや、可愛すぎるやろ!
ちなみに、個人的に一番好きな太宰作品は「風の便り」というお話です。簡単に言えば、大の大人が手紙の文面上でガチ喧嘩するというお話です。もうこれだけでおもしろそうではありませんか?
「こちらは分かった上で書いているんです」
「ですよね、こちらもあなたが分かった上で書いているということを分かった上で書いているのです。」
「まったく、ああ言えばこう言うあなたの悪いところがでていますよ」
「がっかりですよ。僕は真剣に話がしたかったのにそうやってすぐにマウントを取ろうとしてくる」
という具合に進んでいきます。現代でいうところのレスバトルというやつですね。こちらも青空文庫のリンクを貼っておきますので、気になった方はぜひ読んでみてください。
「太宰治の小説は笑える」というツイートの意味を分かっていただけたでしょうか。最近オリエンタルラジオのあっちゃんが『人間失格』についてのあらすじと考察をYouTubeにあげていたのでそちらも紹介しておきますね。『人間失格』は、まさに太宰のイメージ通り、人間のドロドロとした暗い部分を描いた作品ですが、その中にも明らかに読者を笑わせにきてるだろと思われるポイントが何箇所もあります。そんな表現を楽しみながら読むのもいいのかもしれません。