ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【金】対にあるものの現実味がないから「常識」になり得ているものがたくさんある

 

 おはようございます。オンラインでの繋がりが増えるにつれて、自分が「インクさん」と呼ばれることへの慣れが出てきました。ZOOM を使うようになってからは、なおさらその傾向が強くなった気がします。

 普段の生活の中でも「インク」ということばは、ちょくちょく耳にするんですよね。「プリンターのインクがない」とか「ペンのインクを交換する」とか。

 返事をするとまではいかずとも、聞こえる度にぴくりと反応してしまいます。文章の中に登場するようなことがあれば、ものすごく目につきます。

 ただ、自分で自分のことを「インクです」と言うには、まだまだ抵抗を感じます。既存のことばであるが故に「インク」って「恥ずかしい」と「恥ずかしくない」のちょうど真ん中に位置しているんですよね。

 どうせなら、まったく恥ずかしさを感じない人の名前らしいハンドルネームか、いっそのこと言うのも憚られるくらい恥ずかしいハンドルネームにすればよかったなと思います。どうも、インクです。

 

対にあるものの現実味がないから「常識」になり得ているものがたくさんある

 いまの学校が「一斉指導」という形式をとっている理由は「それ以外の手段がなかったから」です。個別最適化するには大人の数が足りませんし、分散させるには場所も足りません。だから大勢の子どもを1箇所に集めて、少ない数の大人が対応しているのです。

 もちろん「社会性を身につけるため」だとか「人間関係を学ぶため」だとか、集団の中で生活させる理由はたくさんあることでしょう。しかし、そんなものはすべて後づけです。枠が先に決まって、後からもっともらしい理由が付け足されていったのです。

 念のために言っておきますが、べつに集団生活を否定しようとしているわけではありません。いま話しているのは、コトの成り立ちについてです。「一斉指導」が常識として成立している理由のお話です。

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 記事のタイトルにもあるとおり「対にあるものの現実味がないから」という理由で「常識」になり得ているものが、意外とたくさんあるものです。

 たとえば、我々は当たり前のように「ことば」をつかってコミュニケーションをとっていますが、本来なら「ことば」なんてひとつの手段でしかありません。

 ことばをつかわずにコミュニケーションをとるということに現実味がないからこそ、ことばをつかうことが「常識」として扱われているだけです。

 靴を履いていることだって、家に住んでいることだって、お金をつかうことだって、生きていることだって。対にあるものに現実味がないだけなのです。

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 ただ、時代が進むにつれて、そんな「対にあるもの」に現実味が生じてくるということがよくあります。はじめの例でいうところの「個別最適化学習」なんてまさにそうだと言えるでしょう。

 かつての教育では、1人の大人に30人の子どもをあてがうことが「常識」として成立していました。ところが、ICT の発達により、常に集団で学習することへの必然性が薄れるようになってきたわけです。

 そうなると「常識」の中で生きてきた私たちは、必ずと言ってもいいほど戸惑います。なぜなら「いまの常識が最適解だ」と思いつづけてきたからです。いちいち疑っていては疲れますからね。

 常識歴が長くなればなるほど、人は「それこそが最善の手段だ」と思い込むようになるのです。そう思い込むことで心の平穏を保つというわけです。

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 だからこそ、新しく現実味を帯びてきた「対にあるもの」を、一生懸命になって否定します。もしくは反対に、いまある「常識」を肯定しはじめるということもあるでしょう。まあ、いずれにせよ「対にあるもの」の価値を下げようと努めるわけです。

 なんだか愚かにも見えますが、この動きは人として当然です。先ほども述べたように、心の平穏がかかっています。変化とは不安で心細いものなのです。

 そんなときに、冷静になってものごとを見つめる力はものすごく大切です。どうしてそれが「常識」として成立してきたのかを考えなければなりません。

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 「この手段こそが最善だ」という選択の上で成立している「常識」なのでしょうか。はたまたこれまでのお話のように、ただ選択肢がなかったから暫定案として成立しているだけの「常識」なのでしょうか。

 「対にあるもの」はどうしてこれまで現実味がなかったのでしょうか。また、どうしてこのタイミングで現実味を帯びるようになったのでしょうか。

 わたしたちは、つねに「常識」という枠に囲われています。「前提」と言い換えることもできるのかもしれません。途中でも述べたように、そんな枠の中に長居してしまうと、そこが世界のすべてだと思い込むようになってしまいます。井の中の蛙状態です。

 だからこそ、枠の更新が必要なのです。リフレーミングというやつです。仮に、更新するとまではいかずとも、せめて「枠の外にも世界がある」ということは知っておかなければなりません。いまはただ、現実味を帯びていないというだけなのです。

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【木】尊敬する人は小林賢太郎です

 

 おはようございます。このブログにはたびたび登場するラーメンズの小林賢太郎さんが、珍しくさまざまなニュースサイトで取り上げられていましたね。

 どうやら「パフォーマー」を引退するそうです。「この人は舞台の上で生きて、舞台の上で死ぬんだろうな」と思っていたファンたちからすれば、わりと衝撃的な発表だったのではないでしょうか。

 はじめて小林賢太郎さんを生で観たのは、K.K.P. 「ノケモノノケモノ」だったような気がします。2014年のことですから、もう6年も前になりますね。

 その後もいくつかの公演を実際に観に行きましたが、どの公演もさすがと言わざるを得ないクオリティでした。そんな人物が引退を表明しているわけです。

 寂しくないと言えば嘘になりますが、どうせまたすぐに何かをはじめるのでしょう。彼のファンがいちばん得意なことは「待つこと」ですからね。

 今日はそんな待ち時間をつかって、改めて「小林賢太郎」という人物について書いてみようと思います。「小林賢太郎って誰なんだ」と思っている方は、きっとこの記事を読み終わったころに「結局誰なんだ」と思っていることでしょう。どうも、インクです。

 

尊敬する人は小林賢太郎です

 小林賢太郎(以下敬称略)が世に出たきっかけは「ラーメンズ」というコントユニットでした。コントは YouTube で観られますし、詳細は Wikipedia に書いてあるので、基本情報は割愛します。

 どこかに分類しようと思ったら「お笑い芸人」になるのかもしれませんが、あまりにも毛色が違いすぎて何とも言い表せません。だから「お笑いコンビ」ではなく「コントユニット」なのでしょう。

 そんなコントユニットは、かなりはやい段階でテレビに踏ん切りをつけました。理由は単純明快です。テレビが苦手だったのです。オンエアバトルのように「ネタだけ」での出演ならまだしも、多くのバラエティ番組では「素の部分」が要求されますからね。

 本人は、このことについて「ミッキーマウスでいたい」と述べています。メイキングを含む裏側は見せずに、作品だけで勝負がしたいというわけです。

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 小林賢太郎がかっこいいのは、本当にそれを実現させているところです。先輩の芸人から「みんなそう思うもんなんだよ」だなんて言われ方をされていることもありました。きっとそれもまた事実なのでしょう。

 多くの芸人が「自分が信じる笑い」だけで勝負をしたいと思っています。しかし、芸能界を生き抜くためにはなかなかそういうわけにもいきません。

 生きていくために、そしてうまくやりくりするために、ハライチの岩井さんが言うところの「お笑い風」に手を出していくのです。実は、小林賢太郎が「お笑い風」をしている映像なんかものこっています。

 彼なりにいろいろと試してみたのだと思います。その上で、苦手なテレビから足を洗って、舞台というフィールドで生きていくことを決めたのです。

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 そんな人物が、2020年12月1月に、表舞台から引退することを発表しました。小林賢太郎を知らなかった人も、おおよその流れはご理解いただけたでしょうか。舞台に生きた人間が、舞台から降りることを発表したのです。実際の文面は以下のとおりです。

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 正しい表現なのかはわかりませんが、この文章を読んだときに「人間宣言だ!」と思いました。本文にもあるように、足のことなどいろいろとあるようですが、筆者には「ミッキーマウスを引退する」という内容に見えたのです。ただの推論ですけどね。

 ただそう考えると、いろいろなところで予兆のような動きがあったことに気がつきます。いちばんわかりやすかったのは『ボクらの時代』への出演でしょう。

 2013年の4月28日の回に、いとうせいこうさんとバカリズムさんと共に出演しています。当時で「民放は11年ぶりだ」とおっしゃっていました。

 『ボクらの時代』なんて、まさに「素の部分」を要求される番組です。メイキングを見せることを趣旨としていますからね。この番組に出ることは「ミッキーマウス」とは相反する行為だったのです。

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 それにも関わらず、どうして出演したのかと考えてみると、これもまた同番組内での発言にヒントがありました。それは「最近になって下の世代のことも考えるようになった」という内容の発言です。

 実際に、出演の翌年には「僕がコントや演劇のために考えていること」という書籍を発表しています。すこし時は進みますが、K.K.P. の過去作である『 TAKE OFF 』の10周年記念として副音声ライブを開催したときは、本当にびっくりしました。これまでの彼なら絶対にやらなかったでしょうからね。

 実際にこのライブには足を運んだのですが、小林賢太郎がひとりのおじさんとして、ふつうに喋っていたことが新鮮すぎてとても記憶に残っています。

 その後も、コントのワークショップを開催したり、自身の作品のクロコを公募したりと、作品世界に他者を招き入れるような動きが増えていきました。

僕がコントや演劇のために考えていること

僕がコントや演劇のために考えていること

 

 そもそもを言ってしまえば、はじめから彼は「語りたい人」ですからね。手段として「舞台」を選んでいただけで、結局はそこにも、キザで、イタくて、かっこいい「小林賢太郎」がいたわけです。

 そんな小林賢太郎が、いよいよ被りものを捨てて「ミッキーマウスになったからこそ得られた知見」を、後世に語り継ごうとしてるように見えるのです。

 言い方を変えると、年齢とともに「死」を強く意識するようになったと言えるのかもしれません。自分がいなくなった、そのあとの世界についてです。

 そう考えると、今回の発表は、とても彼らしい選択だったなあと思います。はじめにも述べたように、ひとりのファンとしては寂しくも思いますが、人間になった小林賢太郎にも、ものすごく興味があります。

 いつかは会って話をしてみたいなと思います。もしかすると、考えようによっては、ミッキーマウスであったころよりも、人間になった今の方が会いやすくなったと言えるのかもしれません。

 

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【水】他者から「頑張っている」と言われることの大抵は頑張っているつもりがないこと

 

 おはようございます。『カルテット』というドラマを観てから、とある曲がずっと気になっています。イギリスの作曲家であるサイモン・ジェフスを中心とした「ペンギン・カフェ・オーケストラ」の楽曲「 Music For A Found Harmonium 」です。

 この何かがはじまろうという感じがとてもよいですよね。妙なペンギンのジャケットも目を引きます。

 それにしても「ペンギン・カフェ・オーケストラ」ってね。「女子高生がかわいいと思ったものをふたつ並べました」みたいなネーミングです。「ペンギン・カフェ」という場所が実在するのでしょうか。

 YouTube で検索をかければ、実際に演奏している動画もみつかります。なかなかに楽しげなので、気になった方はぜひご覧ください。どうも、インクです。

 

他者から「頑張っている」と言われることの大抵は頑張っているつもりがないこと

 今年は勤務地が遠くなったこともあり、なかなかできていないのですが、去年はよくランニングをしていました。平日にも時間をつくることができたのです。

 そして、ちょうどこのくらいの時期にフルマラソンに出場しました。これを毎年のルーティンにしようと思っていたのですが、なかなかうまくはいかないものです。開催自体がそもそも中止になりましたからね。

 行ったり来たりで申し訳ないですが、話を去年に戻します。「朝の時間や仕事終わりに走っている」ということを同僚の先生に話すと「すごい!」と驚かれるわけです。「よくやるな」と言われるのです。

 しかし自分からすれば、そんなにすごいことをしているつもりはありません。走りたくて走っているだけです。嫌ならとっくに辞めていたことでしょう。

 それを「すごい」と言われるわけです。正確に言うなら「大変なのに」ということばが「すごい」の前には隠れています。大変なのに、すごい。

 ところが、先ほども述べたように、当の本人は大変だなんてこれっぽっちも思っていません。要するに、本人と他者との間には大きな差異があるわけです。

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 今まさに行っているを「ブログを書く」という行為にも、まったく同じことが言えます。「毎日書いてすごい」と言っていただくことも多いわけですが、当の本人は大したことをしているつもりはありません。

 ここが大切なポイントです。だからこそ書き続けられるのです。もし他者の言う大変さを、筆者も同じように感じていたとしたら、とてもじゃないけど毎日書きつづけることはできなかったでしょう。

 ここに違いがあるからこそ、ものごとをつづけることができるのです。きっと、ランニングや書くこと以外でも同じことが言えるはずです。つづけている本人には、大したことをしているつもりがないのです。

 だからと言って、当人の感覚にまわりの人を引き込む必要もありません。「全然すごくなんかないですよ!」と謙遜じみたことを言ったところで、どうしても自慢をしているように聞こえてしまいますからね。

 「すごい」と思ってもらえるのなら、素直にそう思ってもらっておけばよいのです。毎朝6時にブログを更新しつづけるのはすごいことです。それはもう、とてもとてもスーパーすごすぎることなのです。

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 客観的に見て、このブログのすごいところは「毎日つづいていること」でも「朝6時に更新していること」でも「2000字という文字数」でもありません。「毎日書くことがある」というところです。

 きっとブログに挑戦した人の多くは「ネタ切れ」という壁にぶつかるのでしょう。しかし筆者の場合は、このブログをはじめてから「何を書こう」と悩んだことはいちどたりともありません。これもまた同様です。筆者にとって「書くことをさがす」という行為は、それほど大したことではないのです。

 先に断っておきますが、べつに自慢をしているわけではありません。ただ事実を述べているだけです。なんども言いますが、ここの捉え方に違いがあるからこそ、こうして書きつづけることができるのです。

 筆者の場合は、たまたまそれが「走ること」や「書くこと」でした。きっと、ほかにもたくさん種類はあるのでしょう。そして、どれが合っているのかは人によってまったく違ってくるのでしょう。

 そんな「ストレスを感じずにつづけられること」こそが、その人の強みになっていくわけです。みつけるためには、とにかくやってみるしかありません。

 なんなら気がついていないだけで、もしかしたらすでにやっている可能性だってあります。それに自覚するためには、やはり他者の存在が必要です。他者という鏡に自分の姿を写したときに、はじめて見えてくるものが、案外たくさんあるのです。

 

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【火】意味なく群れるよりも、意志のある孤立を。

 

 おはようございます。小学校の先生にとって、学期末は繁盛期にあたります。成績表をつくらなければなりません。地域によっては「あゆみ」と呼ばれたり「通知表」と呼ばれたりするあの紙のことです。

 これがまあ大変なわけです。過去のメモを掘り返しながら各教科の成績をつけて、顕著だった内容に関しては「所見」として書き表していきます。

 ちなみにこれ、何人のクラスだろうが担任のお給料は変わりません。20数人の成績表をつくる先生も、40人近くの成績表をつくる先生も、待遇は何も変わらないのです。ほぼダブルスコアにも関わらずです。

 宿題の丸つけとはわけが違いますからね。本当に大変だなと思います。筆者のクラスは30人に満たないくらいなので、まずまずといったところでしょう。

 ここからもうすこし、この繁盛期がつづきます。こんなときこそ機嫌よく。ともにすてきな年末を迎えられるように頑張りましょう。どうも、インクです。

 

意味なく群れるよりも、意志のある孤立を。

 「 Salesforce 」というアメリカの会社の CM で用いられていたことばです。意味なく群れるよりも、意志のある孤立を。YouTube ではじめて観たときから、このことばが妙に印象に残っています。

 ひとりの人間として、批判的に捉えているというわけでも、手放しに賛同しているというわけでもありません。単純に「どうしてわざわざこれをことばにしなければならなかったのだろう」と思ったのです。

 意志をもって孤立して、しかもそれが成立しているのなら、それでよいではありませんか。わざわざカメラを前にして発信する必要はあるのでしょうか。

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 ここからは完全な推論でしかありませんが、わざわざ「意味なく群れるよりも、意志のある孤立を。」をことばにする理由を考えてみようと思います。

 ひとつ目に考えられる理由は「意味なく群れることがスタンダードになっている現状がある」というものです。言い方を変えるなら、群れていなくちゃ不安を感じてしまうような空気感があるということです。

 だからこそ、意味もないのに群れをつくります。協力して何かを成し遂げることが目的なのではなく、群れること自体が目的になってしまっているのです。

 この価値観をつくり上げているのは間違いなく学校です。目的に合わせて群れを構成するのではなく、群れをつくってから目的を与えられますからね。

 言わば、このセリフからは「群れることは手段である」ということと「目的を形成する意志を大切に」というメッセージを読み取ることができます。

 孤立を勧めているのではなく、意志の大切さを説こうとしているというわけです。メインメッセージがそちらにあると考えるのなら、わざわざことばにすることへの合点がいくのではないでしょうか。

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 次に考えられる理由は「寂しさ」です。内に秘めた相反する感情とでも言いましょうか。意思をもって孤立したはいいものの、やはり寂しくなるわけです。

 だからと言って、意味もなく群れてしまうと、自分の意志を曲げることになってしまいます。だからこそ、孤立した自己を他者の認識に住まわせるのです。そうすることで、孤立しながらにして、他者が自己の存在を証明してくれるようになります。

 おそらくここで言う「孤立」ということばは「遮断」という意味合いではないのでしょう。それこそ「遮断」を意味するのなら、カメラの前で表現していることへの説明がつかなくなってしまいます。

 そうなると、また新たな疑問が生まれてきます。「遮断」ではないのなら、ここで用いられている「孤立」とは、一体どのような意味なのでしょう。 

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 まず間違いなく言えることは、選択肢のひとつとして「孤立」を提示しているということです。そして、現時点でそちらを選択する者はマイノリティであるということも、なんとなく伝わってきます。

 でも、人類の歴史を振り返ってみれば、そりゃあそうですよね。これまでの世界なら、孤立は「死」を意味していました。捕食されるという意味での「死」であり、飢餓に苦しむという意味での「死」でした。

 みんなで協力してマンモスを狩らなければ、自分の命が危ぶまれていたわけです。そりゃあ、手と手を取り合います。目的を共有した群れの形成です。

 ところが、時代が進むにつれて、群れをつくる必要がなくなりました。ひとりでも 衣・食・住 を確保できるようになったのです。変化は革新的でした。

 しかしそんな時代になった今でも、人々は「群れ」への信仰を忘れることができません。「ご近所付き合いがなくなって寂しい」だなんて言いながら、必死に「群れ」の価値を損なわないようにしているのです。

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 ここで、CM のキャッチコピーが効いてきます。次の世界へ。言ってしまえば、次の世界の象徴として「孤立」ということばが用いられているわけです。

 群れなければ死んでしまう、その次の世界です。そう捉えると「寂しさ」ではなく「提案」としての「孤立」だということになりますね。

 どれだけ今いる場所に安心感を覚えていたって、時代は常に変わり続けています。変化を望まないということは、川の真ん中に棒を立てるようなものです。

 変化には不安がつきものですが、変わらずに踏ん張りつづけることも、それはそれで大変です。激流ですからね。その場に踏みとどまることに体力をつかっていると、いつかは飲み込まれてしまいます。

 意味なく群れるよりも、意志のある孤立を。変化を拒むよりも、変化を楽しむ心を。人間次第で、この世界は、まだ面白くなる。次の世界へ。

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【月】傷つく勇気をもてるかどうか

 

 おはようございます。最近はやりたいことがありすぎて、1日という時間に収まりきらなくなってきました。「本を読む時間」と「走る時間」と「ごはんをつくる時間」を何とかして確保したいとずっと思っているのですが、結局はどれも中途半端な状態です。

 これらの時間をつくるためにも、何かを削らなければなりません。現時点での時間配分として優先順位が高いのは「寝る時間」と「書く時間」と「転職のための時間」です。これらを削るわけにはいきません。

 それ以外で考えるとなると、削れそうな時間はふたつあります。ひとつは「 YouTube を観ている時間」で、もうひとつは「働いている時間」です。

 YouTube は「BGMとして再生する」ということをやめてみようと思います。はじめはBGMのつもりでも、結局はぼんやりと観てしまいますからね。

 だからその分、ラジオに移行していきたいと思っています。ラジオを聴きながら、ごはんをつくったり走りに行ったりすることができたらベストです。おすすめのラジオ番組があれば、ぜひ教えてください。

 厄介なのはふたつ目ですね。「働いている時間」です。正直に言えば、はやく帰ろうと思えば帰れないことはありません。シンプルに人間関係の問題です。

 「はやく帰るせいで人間関係に亀裂が入るということ自体がおかしい」という正論を振りかざしていても仕方がありませんからね。はやく帰っても何も変わらないような関係を構築していきたいと思います。

 これらの時間を削って、まずは「本を読む時間」から確保していこうと思います。なんだかいつもに比べて、マクラが長くなってしまいましたね。本日もどうぞよろしくお願いいたします。どうも、インクです。

 

傷つく勇気をもてるかどうか

 昔は「理解者がほしい」とずっと思っていました。「おもしろい」を共有できる他者のことです。

 しかし、人との距離が近づくほど、自分との違いは顕著になります。ひとりでいるときよりも、大勢でいるときの方が孤独を感じるようになりました。みんなと同じタイミングで笑うことができなかったのです。

 だからこそ、はじめて『新世紀エヴァンゲリオン』を観たときには「人類補完計画」にものすごく魅力を感じました。全人類の意識の統合が、孤独からの解放を意味していると思ったからです。

 花沢健吾先生の『アイアムアヒーロー』の「ZQN」にも、根本には同じような考えがあると思っています。「人類補完計画」と「ZQN」を知ったときに「自分だけじゃなかったのか」と思ったわけです。

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 しかし、現実世界には裏死海文書もなければ、ゾンビも存在していません。そうなればもう、目に見えないATフィールドを張るしかありませんでした。

 そんなときにグサグサと刺されたのが、今では随分とビッグになった米津玄師さんの「 WOODEN DOLL 」という曲でした。ファーストアルバムがお気に入りすぎて、セカンドはあまり再生していなかったのですが、この曲だけは何回も聴いた記憶があります。

 もう、黙り込んだ方がお得だ。否定されるくらいなら。そのうちに気づくんだ。何も言えない自分に。

 ホールデンの言う「僕は耳と目を閉じ、口を噤んだ人になろうと考えた」のその先です。人類補完計画を諦めたホールデンの先に WOODEN DOLL です。

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 なんだか綺麗ごとのように聞こえるかもしれませんが、生きていこうと思ったら、結局は前を向くしかありません。無理やりにでも、前を向かなければならないのです。そのためにも傷つく勇気が必要です。

 そう考えると、筆者は随分と時間をかけてしまいました。遠回りに遠回りを重ねて、ようやくスタートラインに立つことができました。きっとこの場所を忘れてはならないのだろうなと思います。

 

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモセズ

サフイフモノニ

ワタシハナリタイ

 

 いつかは、だれかが諦めかけた話の聞き手になりたいなと思います。ちゃんと話してよ。大きな声で。目を見開いて。わっはっはは。

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