ツイートの3行目

小学校の先生です。ツイートは2行まで。3行目からをここに書いていきます。

【金】その人だからこそ言えたことばが知らぬ間に他の人に伝わっていると悲しい

 

 おはようございます。声に出して読みたくなることばってありますよね。「墾田永年私財法」なんて長くて難しいことばなのに、誰もがあっという間に覚えてしまいます。「東海道中膝栗毛」なんてもう最高ですね。「膝栗毛」って。

 「リオネル・メッシ」とかもいいですよね。「クリスティアーノ・ロナウド」もなかなかイケてます。「ジャッキー・チェン」や「ブルース・リー」なんてのも逸材です。外国人であれ、声に出したくなるようなリズムをもっていれば、すぐに覚えられるというわけです。自分のハンドルネームも、もっと言いたくなるような名前にすればよかったかもしれないなあ。どうも、インクです。

 

その人だからこそ言えたことばが知らぬ間に他の人に伝わっていると悲しい

  「相手にとったら、自分は『数多くの友だちのひとり』でしかない」と思って、なんだか勝手に悲しくなってしまうことはありませんか。友だちが多い人と一緒にいると、いつもこんな風に思います。しかし、だからと言って、友だちが少ない人といると、それはそれで疑り深くなってしまいます。「友だちがいない」だなんて言っておきながら、「どうせ本当はいるんでしょ」と思ってしまうのです。

 もちろん、誰とどんな付き合いをするかなんて、その人の自由ですから、こちらがとやかく言うことはできません。ただ、その人の後ろにいる人たちのことを想像すると、どうしても一歩引いてしまうのです。

 特に話の内容は慎重になってしまいます。その人だからこそ言えたことばが、知らぬ間に他の人へと伝わっていることがあるからです。別に「秘密にしておいてね」と頼んだわけでもないので、誰に話すのもその人の自由なのかもしれません。しかし、他の人に伝わっていたことを知ると、「あなただからこそこの話ができたのにな」と思ってしまうのです。

  だからといって、他の人にも伝わることを前提として話をするとなると、内容がかなり限定されてしまいます。信用できない人なんて世の中にたくさんいますからね。たとえその人のことを信用できたとしても、その後ろに繋がっている人たちのことまで信用できるとは限らないのです。

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 子どもの頃からずっとこんなことを思っていました。自分のいないところで、自分の話をされるのが大嫌いでした。だからこそ、誰にも「自分の話」をしなくなっていきました。徹底的に壁を作り上げていったのです。

 簡単に言えば、自意識過剰だったのでしょう。誰も自分のことなんて気にしちゃいません。でも、それを踏まえた上で、やはり「自分」という素材をオープンにすることはできなかったのです。

 だから、大人たちからは「自分を出せ」だの「殻を破れ」だのとよく言われてきました。その度に「うるせえよ」と思い続けてきました。閉ざしているくせに、そんな強さはもっていました。「自分を出せ」ということばは「今のお前はだめだ」という人格否定ですからね。今でも大嫌いなことばです。絶対に他の人に向かってこのことばをつかうことはありません。

 そんな思春期に溜め込んだ自意識が、今の自分をつくっています。このブログの記事にも存分に表れている「ひねくれ」はこのころにできあがったものたちです。そんな自意識は、「生きづらさ」の原因になっていましたが、今となってはいい素材です。

 今こうして少しずつオープンに表現していくときに、他の人とは少し違うものが出てくるからです。他の人が持ち合わせていない、気持ちの悪いドロドロしたものを、表現に混ぜ込んでいくことができます。過去の苦しみが、今では武器になるということです。過去を全肯定することはできませんが、うまく扱いながら、ひとつの材料にしていけたらいいなと思っています。

 

 

 このような、精神的な部分のお話はもっと思うところがあるし、もっと言いたいことがあります。なんなら今日の記事で変に書こうとしてしまったせいで、中途半端になってしまったような気もします。また、休みの日にでも、時間をかけてゆっくり書きたいと思います。だから、今日の記事はあまり真に受けないでくださいね。

 

 

 

【木】習った漢字をすべて使えばその分読みやすくなるわけではない

 

 お早う御座います。昨日は無事、研究授業を終えました。矢張り、研究授業は攻めるからこそ面白いですね。放課後の研修会では、様々な御助言を頂きましたが、先生に依って見ている観点が違うのでとても面白かったです。子供達の姿や授業の組み立てだけでなく、教師としての自分を見て戴けるので本当に有り難かったなと思います。今日から早速、役立てて行きたいと思います。どうも、インクです。

 

習った漢字をすべて使えばその分読みやすくなるわけではない

  子どものころ、先生に「習った漢字は必ず使いなさい」と言われて育ちました。習った漢字をひらがなで書いていると、赤で訂正されることもありました。同じような経験のある方も多いのではないでしょうか。そんなときに、ずっと疑問に思っていたことがありました。

 

本の中では簡単な字もひらがなで書いている

 

 本を読んでいると度々出会うわけです。「この字は漢字で書けるのにな」ということばに。先生が言っていたこととは違います。どうしてこんなに簡単な字をひらがなで書いているのだろう。作者が漢字を忘れてしまったのでしょうか。

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 この謎が解明したのは、大人になってからでした。たとえば、筆者の大好きな村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』という作品を見てみましょう。

「踊るんだよ」羊男は言った。「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えしたら足が停まる。一度足が停まったら、もうおいらには何もしてあげられなくなってしまう。永遠にくなってしまうんだよ。そうすると、あんたはこっちの世界の中でしか生きてけなくなってしまう。どんどんこっちの世界に引き込まれてしまうんだ。だから足を停めちゃいけない。どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。そして固まってしまったものを少しずつでもいいからほぐしてくんだよ。まだ手遅れになっていないものもあるはずだ。使えるものは全部使うんだよ。ベストを尽くすんだよ。怖がることは何もい。あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が停まってしまう」

 僕は目を上げて、また壁の上の影をしばらく見つめた。

「でも踊るしかいんだよ」と羊男は続けた。「それでもびっり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」 

村上春樹(2004)『ダンス・ダンス・ダンス 上』講談社、 P.182-183

 好きすぎて、引用が長くなってしまいましたね。ざっと、漢字で表現しようと思えばできるであろう字を大きくしてみました。意外とたくさんあるものです。「考えだしたら」の「出す」なんてとても簡単な字ですね。小学1年生で習います。それでもひらがなで表現されています。どうしてなのでしょうか。

 もうお気づきかと思いますが、その理由は、今日の記事のいちばんはじめに書いています。今日の記事の「はじめに」は、漢字で表せるところはすべて漢字で書いてみました。どうでしょうか。とても読みづらくはありませんでしたか。いちいちスクロールするのもめんどくさいと思いますので、もう一度書きますね。

 お早う御座います。昨日は無事、研究授業を終えました。矢張り、研究授業は攻めるからこそ面白いですね。放課後の研修会では、様々な御助言を頂きましたが、先生に依って見ている観点が違うのでとても面白かったです。子供達の姿や授業の組み立てだけでなく、教師としての自分を見て戴けるので本当に有り難かったなと思います。今日から早速、役立てて行きたいと思います。どうも、インクです。

 「お早う御座います」や「矢張り」などといったことばは、やはりひらがなで書かれていた方がしっくりきますよね。たとえ漢字で書けたとしても、わざわざ漢字を使わない言い回しもたくさんあるというわけです。ちなみに、いつも通り書くとしたら、こんな感じになると思います。

 おはようございます。昨日は無事、研究授業を終えました。やはり、研究授業は攻めるからこそおもしろいですね。放課後の研修会では、様々なご助言をいただきましたが、先生によって見ている観点が違うのでとてもおもしろかったです。子どもたちの姿や授業の組み立てだけでなく、教師としての自分を見ていただけるので本当にありがたかったなと思います。今日からさっそく、役立てていきたいと思います。どうも、インクです。

 どうでしょう。まったく同じことが書かれているはずなのに、読みやすさは大きく異なるのではないでしょうか。つまり、漢字をつかえば、それだけ読みやすくなるとは限らないということです。だからといって、すべてひらがなにしてしまうと、それはそれでとてもよみづらいぶんしょうになってしまいます。結局は漢字とひらがなのバランスが大切だということです。

 もしかすると、人によっては「おもしろい」や「さっそく」はひらがなで書くよりも漢字の方がいいという方もいらっしゃるかもしれません。はたまた、「本当に」はひらがなの方がいいという方もいらっしゃるかもしれません。結局そこを選ぶのは書き手です。出版する際には、きっと編集者もここに絡んでくるのでしょう。読者のことを思い、読みやすさを追求する中で、漢字なのかひらがななのかが選択されていくのです。

 もちろん筆者も、記事を書くときにはこれを意識しながら書いています。読み返したときに、漢字をひらがなに書き換えるのはよくあることです。そんな中、以前フォロワーさんとのやりとりでこんなものがありました。

  筆者にとっての、ひらがな表記は、このツイートで言うところの「マーキング」でもあるような気がしてます。完全に個人的な好みなのですが、このことばは必ずひらがなで表記しようと決めているものがいくつかあります。たとえば、まさに今つかった「ことば」ということばは、個人的にはひらがなで書きたい派です。他にも「つかう」ということばも、できるだけひらがなで書きたいと思っています。

 「漢字」という表現は、意味を限定する書き方だと思っています。漢字には一文字一文字に意味がありますからね。「言葉」という漢字も決して嫌いなわけではないのですが、意味を限定してしまうにはあまりにも大きなことばのような気がするので、「ことば」はひらがなの方がしっくりきます。

 「つかう」ということばも、漢字で「使う」と表現すると、どこか物質性が表れてくるような気がしています。「モノを使う」「道具を使う」というイメージです。つかうものが物質とは限らない場合も多いので、基本はひらがなで表記したいと思っています。

 そんなよく分からない個人的なこだわりが、筆者にとってのマーキングの一種になります。要するに、世の中に存在する数多くの文章の中でも、「ことば」や「つかう」がひらがなで書かれていたら、それは「インク」が書いた文章である可能性が高いということです。もちろん、それだけで特定することは不可能でしょう。判断する要素は、漢字かひらがなかだけではありません。

 ただ、筆者が書いている文章は、普段から読んでくださっている方なら、きっと無記名でも分かっていただけるのではないかと思っています。

  漢字だけでなく、「句読点」や「段落」も含めた表記上の特徴も合わせて、「その人だからこそ書ける文章」ができあがっていくのだと思います。だからこそ、「句読点」や「段落」の指導って難しいんですよね。正解がない。言ってしまえば、結局はその人の好みでしかないのです。数多くの文章に触れる中で、「読みやすさ」「読みづらさ」を感じ、自分の文章に取り込んでいくしかありません。

 度々述べていますが、そのときは、読みやすかったものをマネることよりも、読みづらかったものをマネない方が簡単だと思っています。他の人の文章を読んで「読みづらいなあ」と思うことって、案外とても大事です。読みづらい文章から学ぶことはとても多いです。こう書いたら読みづらいのか。じゃあ、自分はこう書かないようにしよう。このような消去法で、自分の文章は形作られていくのです。

 

 

 少し話が広がりすぎた気もしますが、そもそもは「漢字」と「ひらがな」の使い分けというお話でした。みなさんも「このことばは漢字で書きたい」「このことばはひらがなで書きたい」という自分のこだわりをもっていますか。

 先ほど述べたように、この選択は「読みやすさ」を追求するためのものなので、必ずしも「習った漢字はすべてつかう」が正解ではありません。学校の先生の中で「習った漢字はすべてつかう」をさせたいのであれば、せめて子どもたちに今日の記事に書いたようなことを説明してあげてほしいと思います。

 習った漢字をすべてつかうのは、漢字を覚えるためであって、文章を読みやすくするためではありません。文章の読みやすさを追求するのなら、あえてひらがなで書くという選択肢もあります。くれぐれも、漢字で書けるものを漢字で書いていないからといって「その文章は間違いだ」と判断してしまわないように注意したいものです。

 

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【水】辞書に書かれていることばの意味は「通説」であり「答え」ではない

 

 おはようございます。今日は研究授業です。やっぱり、時間をかけて準備した授業はいいですね。わくわくします。これが、先生の本来の仕事だよなあと改めて思います。じっくり授業について考えられるのが、どうして研究授業のときだけなんだ?授業がしたくて先生になったんだけどなあ。どうも、インクです。

 

辞書に書かれていることばの意味は「通説」であり「答え」ではない

 そもそも論を問いたくて、よく子どもたちに「〇〇って何?」という質問をします。「友達って何?」「 命って何?」「勉強って何?」という具合です。身近なものほど「〇〇って何?」を考える機会がありません。だからこそ、子どもたちは一生懸命悩んでくれます。その過程で生まれる話し合いに、とても価値があると思っています。

 そんなときに、子どもたちはよく辞書を引こうとします。「友達って何?」と聞かれたら「友達」と辞書を引こうとするのです。すると当然「友達」ということばの意味が出てきます。

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 辞書ともなれば、余程のことがない限り「間違ったこと」は書かれていません。志を共にして、同等の相手として交わっている人。確かに間違ってはいませんね。では、この「友達」はどうでしょう。

 

おい、金貸してくれよ。俺たち友達だろ。

  上記の定義でいくのなら、これは「友達」ではありません。とても同等の相手だとは言えないでしょう。「困ったときは助け合う」という友達の性質を悪用した分かりやすい例です。「友達」と聞くと、いいことばのように聞こえますが、このような使われ方をすることもあるというわけです。

 

愛と勇気だけが友達さ

  この「友達」はどうでしょう。発言者と「愛」は、志を共にした仲間なのでしょうか。発言者と「勇気」は、同等の相手として交わる人なのでしょうか。なかなか「うん」とは頷ききれませんよね。つまり、ここで使われている「友達」は限りなく比喩に近いということになります。愛と勇気は友達(のようなもの)だ、というわけです。

 

ボールはともだち こわくないよ

 この「ともだち」も、比喩なのでしょうか。かなり微妙なところですよね。作者のメッセージとしては、「こわくない」の方に重きがあるはずなので、「ともだち」は比喩だと捉えるのが妥当なのでしょう。

 でも、キャプテンの目を見ると、本気で「ともだち」だと思ってそうですもんね。仮に、この「ともだち」を認めてしまうと、それこそ定義は崩れてしまいます。なにせ、「ともだち」を思い切り蹴っていることになりますからね。改めて「ともだち」って何なのでしょう。

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 上記の三つの例で何が言いたかったのかというと、ことばの定義付けにおいて、反例なんていくらでもあるぞということです。もちろん辞書によっては、②③…といくつか意味を書いているものもありますが、それらを含めたとしても、ことばの意味を完全に網羅することなんてできません。

 一つ目の「友達」のように、そのことばのもつ一部の意味合いだけが転用されて使われていたり、二つ目・三つ目のように、比喩に限りなく近い使われ方をしていたりすることもあります。

 さらに細かいことを言うと、使い手の感情や声色、表情によっても、ことばの意味合いは変わります。そのことばを発する場の状況、タイミング、相手との関係性によっても変化します。「皮肉」なんてまさにそれです。その状況に合わせて、なんでもないことばに新しい意味合いが与えられるのです。

 要するに、辞書に書かれている意味は、そのことばの「答え」ではありません。できるだけ多くの場面に当てはまるであろう「通説」にすぎないのです。辞書の正しい使い方は、答えを調べることではありません。「参考にする」が正解です。それを自覚した上で使うことができたら、きっとあなたも辞書と友達になれるはずです。

 

 

 よく「紙の辞書か電子辞書か」という作文を書かせることがありますが、どうしてこのテーマはこんなに人気なのでしょうね。どっちでもいいよ!好きな方使えよ!と思ってしまいます。せめて「紙の辞書は将来なくなるのか」にすれば、少しはおもしろくなるのになあ。どの意味合いをもたせた、どのことばを選ぶのかによって、言っていることは同じでも、まったく異なる伝わり方をします。やっぱりことばはおもしろいですね。それでは、研究授業を楽しんでこようと思います。どうか皆様、よい水曜日を。

 

 

 

【火】おもしろいからって読んでもらえるとは限らないのが難しいところ

 

 おはようございます。1日を気持ちよく始めるために必要なことは、やはり前日に早く寝ることですね。何年もの経験を積み重ねて、よく知っているはずなのに、なかなか継続できないのが不思議です。つかった皿はすぐに洗おう、ゴミを溜めずに部屋をきれいに保とう、早寝早起きをしよう。

 人生のうちに、一体何度この決意を繰り返すことになるのでしょうか。そんな中でも、こうして毎日ひとつずつ記事を書き続けていることは、実はとてもすごいことなんじゃないかと思い始めました。すごいことですよね。ね? どうも、インクです。

 

おもしろいからって読んでもらえるとは限らないのが難しいところ

 毎朝「今日の記事もおもしろいよ」と思いながら更新しています。誇張しているわけでもなんでもありません。本気でそう思っています。少なくとも、ひとり目の読者である自分自身は、自分の記事を読んで笑っています。逆に、ひとり目の読者がおもしろいと思えない記事は、そもそも表に出しません。毎朝更新しているからといって、やっつけ仕事をしているわけではないのです。

 しかし、ここから先が難しい。どれだけおもしろくとも、読んでもらえるとは限りません。おもしろさに比例して、アクセス数が伸びるわけではないのです。人の目に触れることがなければ、それはもはや存在していないのと同じです。文章は、読んでくれる人がいて初めて成立するのです。

 ブログという媒体において、入り口はいくつかありますが、弊「ツイートの3行目」に関しては、その名の通り、ツイッターが正面玄関になっています。記事を更新するたびに通知ツイートをしています。きっと読みに来てくださっている方のほとんどは、そこからリンクを踏んで来てくださっているのではないでしょうか。

 この「リンクを踏む」という行為は、簡単なように見えて、実はとても高い障壁です。なぜなら、世の中は「リンク」で溢れかえっているからです。ツイッターのタイムラインともなればなおさらです。「リンク」が行列をつくっているようなものです。そんな中から、弊ブログの「リンク」をクリックするなんてほとんど奇跡です。そんな奇跡を引き当てて、来てくださっている方には本当に感謝です。ありがとうございます。

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 そんな弊ブログですが、現状としては、読者数が135人、正面玄関であるツイッターのフォロワーが247人です。世間的に見れば、弱小中の弱小です。ザコです。ザコアカウントです。

 当然のことながら、そんな狭い世界で通知をしたところで、遠くの人には届きません。伸びたときで、160PVほどです。読者数やフォロワー数を考慮すると、このくらいの数字が頭打ちなわけです。とれるパイはすべてとりきって、ようやく160という数字がでてきます。どれだけおもしろい記事を書いても、きっとこれ以上は伸びないでしょう。

 そんな中で、ときどき頭ひとつ分、飛び抜けたPV数を出す記事があります。直近のものでいくと、11月13日に286PVまで伸びました。これまでの記事と一体何が違ったのでしょうか。ダントツで内容がおもしろかったのでしょうか。答えはとても簡単です。

 

リツイートしてもらえたのです。

 

 これがすべてです。はじめに書いたとおり、内容はどの記事もおもしろいはずです。人がリンクを踏むのは、おもしろそうだからではなく、信用している人が勧めているからなのです。

 自分のパイを広げていくことももちろんですが、弱小アカウントには限界があります。だからこそ、みなさんの信用を貸してください。今日の記事で言いたかったことはただひとつ。おもしろいと思ったらリツイートしてください。コメント付きの引用リツイートなんてしていただけたら最高です。

 もちろん「リツイート」という壁の高さも重々承知しています。なんせ自分のタイムラインに他人のツイートが表示されるわけですからね。フォロワーからは「ふうん、この人はこれをおもしろいと思っているんだ」と思われてしまうわけです。だから、無理にとは言いません。おもしろいと思ったらで結構です。「わたしのアカウントでリツイートしても拡散能力はありませんよ」なんてどうだってかまいません。とにかくリツイートしてください。どうぞよろしくお願いします。

 

 

 今日の記事は、わがまま回になりました。「リツイートしてくれ」だなんて誰もが思っていることでしょう。そんなことを、わざわざ記事にしたのには理由があります。最近、コメントやリプライをちょこちょこいただけるようになって、単純に嬉しかったのです。暗闇に向かって話しかけていたことばが、ちゃんと人に届いている。これ以上の喜びはありません。

 逆に言えば、あなたが送ってくれた何気ないメッセージを、受け手はとても嬉しく思っています。きっと送ってくれた方には、そんなつもりはなかったでしょう。しかし、そんなあなたの一言が、無機質なことばに命を吹き込むのです。

 それを知ったからには、自分も誰かにメッセージを送りたい。そう思うようになりました。だから、今日からは遠慮なく、人に絡んでいこうと思います。急にリプライを送ってきて「なんだこいつは」と思った方はすみません。一応こんな理由があるわけです。

 これまで避けてきた「人との関わり」をもつ。当分はここを目指してウザ絡みをしていこうと思います。どうか優しくしてあげてください。よろしくお願いします。

 

 

 

【月】コンタクトを外そうとして角膜を引っ張る

 

 おはようございます。日曜日を引き換えに、8割の成績表の所見を書き終えました。もう一息です。今週は研究授業も控えています。あと少し。あと少し耐え凌げば、こたつに入りながらみかんを食べることができます。このブログを読んでくださっている方全員と、1月1日に「あけましておめでとう」と言い合えることを願っています。今週も共に乗り越えられるようにお互い頑張りましょう。どうも、インクです。

 

コンタクトを外そうとして角膜を引っ張る

  中学生のころから視力が落ち始め、高校生の頃には常にメガネをかけている人になりました。そのときは、必然性にかられてかけていただけで、メガネに対してはなんの思い入れもありませんでした。ただ、当時は部活動をしていたので、そのときはたしかに邪魔だったかもしれません。特に雨の日の練習は、レンズに雨粒がついて見えません。だからと言ってメガネを外しても目が悪くて見えません。今思い返してみると結構不便だったのかもしれません。

 ただし、当時はコンタクトに変えようという発想はありませんでした。メガネを長くかけていると、それが当たり前になります。周りの人からのイメージも「メガネをかけている人」になります。だからこそ、一度かけはじめると、なかなか外しづらくなるのです。まあ、外したいと思っていたわけではないんですけどね。

 そんなときに、コンタクトに変えるひとつのきっかけが訪れました。それは、教員採用試験です。筆者が受験した自治体では、実技で「プール」の試験があったのです。ある程度の実技はメガネをかけたままでもできますが、さすがに「プール」はかけたまま入るわけにもいきません。だからと言って、めがねを外せば、どこに誰がいるのかも、どこからがプールなのかも分からなくなってしまいます。このタイミングをいい機会に、人生で初めてコンタクトレンズを買いました。とにかく眼科の待ち時間が長かった記憶だけが残っています。

 ここで、ひとつの決断をしなければなりませんでした。今後、メガネをどうするかという決断です。「コンタクトがあるのだから、もうメガネはいらないんじゃないの?」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それはあまりにも可哀想ではありませんか。新しい恋人ができたから、あなたとはもうさようなら。そんなことをしたら、メガネは二度と立ち直れなくなってしまうかもしれません。

 ごめんなさい。冗談が過ぎました。実際は、コンタクトに切り替えるタイミングでこんなことを思ったのです。視力の源が目ん玉にくっついているのなら、メガネに視力を求める必要はなくなる。つまり、いろんな種類の伊達メガネをかけられるのではないか。ここから、筆者の第二のメガネライフが始りました。自分にとって、メガネは視力矯正器具ではなく、ブランディングアイテムに変化したのです。

 メガネの世界はとても奥が深いです。顔の真ん中に置かれるだけあって、少し形が違うだけで、印象ががらりと変わります。同じ黒縁のメガネでも、スクエアとラウンドではもはや別人です。さらに言えば、フレームの色、レンズの色、テンプルの色をひとつ変えるだけで新しい自分になることができます。簡単に厳つくなることもできますし、インテリになることだってできます。これまでずっとメガネをかけてきたはずなのに、こんなに広い世界が広がっていたことを知らなかったのです。

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 先生という仕事を続けていく上でも、メガネをかけているだけで得をすることがたくさんあります。例えば、メガネをかけていると、子どもたちが似顔絵を描きやすくなります。顔のパーツを細かく描き込まなくても、メガネさえ描いていれば、先生のできあがりです。他にも、違うメガネをかけて行くだけで、子どもたちの視線を集めることができます。上手に扱えば、空気を切り替えるきっかけにもなります。頻繁に変えすぎると効果がなくなってしまうので、筆者は学期に一度、学校にかけていくメガネを変えています。「気持ちを新たに今学期もがんばろうね」という意思表示です。ひとつひとつのレンズに度を入れていたら出費がかさんで仕方がありませんが、なにせ伊達メガネです。ある程度の価格で新しいものを購入することができます。これらのメリットを享受できると考えたら安いものです。何より自分自身のモチベーションも上がります。

 さらに、もうひとついいところを挙げるとしたら、「メガネをはずす」という選択肢を獲得することができます。初めからメガネをかけていなければ、絶対に選ぶことのできない選択肢です。子どもたちと過ごしていると、必ず「先生、メガネ外してみて」と言われる機会が訪れます。先生からすれば「待ってました」です。「分かった。じゃあ、君たちが〇〇を達成したらメガネを外すね」と答えるわけです。すると、子どもたちはおもしろいくらいに一致団結して目標を目指そうとします。「なんとしてでも先生のメガネを外してやろう」と頑張るわけです。沼田晶弘先生の言うところの「アナザーゴール」です。本来の目的とは違うかもしれませんが、楽しみながら目標に向かって走り始めるのです。先生がすることはただひとつ。達成したときに子どもたちの前でメガネを外す。それだけです。

 どうですか。お得すぎると思いませんか。この記事を読んだ先生は、ぜひ来年度に向けてメガネを一本選んでみてはいかがでしょうか。新たな世界が広がるかもしれません。

 

 

 そんなメガネですが、もしかすると先に「スマートグラス」の時代が来るかもしれませんね。スマホはもちろん便利ですが、何せ手がふさがってしまいます。何かをしながら扱うにはかなり不便な端末です。だからといって、どこかに置いてしまったら良さが半減してしまいます。「人が動きながら動画コンテンツを利用することができるように」と考えるなら、やはり「メガネ」という形が適しているのかもしれません。将来、もしそんな時代が来たらこの記事を思い出してくださいね。それでは、よい1週間を。

 

 

 

 

メガネ、めがね、眼鏡。どの表記でも通用する珍しいことばですね。